中学生時代(後編)
不登校になったきっかけ
5月半ばころから感じていた視線。
陽キャ組が私の方をみて笑っている。
男女合わせて5~6人。
その中には小学生の時に裏切ったあの子もいた。
理由は2つ
①部活動に入らなかった事
②容姿(特に顔)
①については前編で書いたように、学校に行くのが苦痛だった。
しかし、あの時代は学校に行くのが当たり前で休むことは容易ではない。
子どもが『行きたくない』と言っても行かせる時代だった。
だから親には何も話さず学校に行っていた。
問題は②だ!
中学生になり私の顔にはニキビができた。
私は肌が弱い。それに加えて洗顔というのを知らなかった。
水で顔を洗う。それだけ。
ここまで読んでくれた方は察してくれるでしょうが、母は女性らしさがない。
というより、私にお金をかけることをしない人だ。
服は保育園の頃は兄のおさがり。小学~中学と知り合いのお姉さんのおさがり。
自分の好き嫌いは関係ない。あるものを着るしかなかった。
女の子のお母さんなら気を配るところに気付かない。
中学生になり肌が荒れだしても気にならなかったのだろう。
暑さと思春期で顔はニキビだらけ。
陽キャ組は、私を『オバケ』と呼んでいた。
聞こえるように『キモイ』『菌がうつる』と話している。
わざと避けて通ったり、すれ違う時は極端に避ける行動をとった。
それでも親に何も言えず耐えて過ごした。
あの日は中間テストが返ってきた日。
教室の中央付近に座っていた私の机に誰かがぶつかり筆箱が落ちた。
拾おうとする私と、拾ってくれようとする男子。
その時、その男子と目が合った。その瞬間『気持ち悪っ』と一言いい去っていった。
その男子は陽キャ組の一人で小学校から仲の良かった男子だった。
陰口を言われている間はガマンできた。
しかしあの瞬間心が崩れた。耐えることができなかった。
そして翌朝。私は物心ついてから始めて親の前で泣いた。
新聞を読む母の背中に縋りつき『学校に行きたくない』と…
なに?どうした?と言う母。一度口にすると感情が溢れ言葉にならない。
学校に行く時間。とりあえず『学校に行け。夜に話を聞く』と言う母。
『行きたくない』と泣き叫ぶ私の声で居間に来た父。
父『なに?どうした?なにがあったんや?』
母『学校に行きたくないって』
父『今日は休め。部屋行ってろ』
父に促されて部屋に戻った。
この日から私は不登校になり、父と担任との戦いが始まった。
数日間は兄と祖母に知られることはなかった。
しかし、2週間を過ぎたころには知られた。
もちろん黙っていない。毎日毎日罵倒される。
弱いお前が悪い!家の恥さらし!・・・その言葉で糸が切れた。
家にも居場所がなくなり、私は数日後に自殺を図った。
今生きているのでもちろん未遂ですが・・・
それから話題になることはなくなった。
というより、私が部屋から出なくなった。
ご飯も食べず周囲の音を消すように布団をかぶっていた。
ある日突然、母から『明日出かけよう』と言われた。
どこに行くのか知らずに連れていかれたのは『お寺』
祈祷をし住職の話を聞く。
母なりに解決方法を探し、紹介してもらったようだ。
祈祷で解決することはない。
ただ『死んではいけない』と言う話を聞かされた。
学校に行かなくなり、3週間が過ぎると毎日担任が家に来るようになった。
話の内容はわからないが、平行線のようだ。
担任の最後の頼みで2人で話すことになった。
担任とは距離を取り部屋の隅で話を聞く。
テンプレートのように『学校に来ないか?』
『どうして学校に来ないんだ?』繰り返すばかり
何も答えない私に『ずっとこうしているのか?』
『学力が落ちるぞ』『高校に行けなくなるぞ』
脅し文句のように言ってくる。
それでも沈黙を貫く私に『何か言いたい事はないか?』と聞いてきた。
なので答えた。『教室にはいたくありません。だから学校にも行きません』
担任は『そうか・・・』と呟いて帰っていった。
恐怖から解放され安心したら涙が出てきた。
帰ったタイミングで母がジュースを持ってきてくれた。
我が家でジュースは貴重品でビックリして涙が止まった。
学校から別室登校が提案された。
10月下旬になり、学校に行ってみようと思った。
自転車通学の私。自転車で家を出るも途中で引き返す。
翌日、学校までたどり着いたが自転車置き場から引き返す。
この繰り返しだ…
母もいいかげん呆れた顔をしている。
何度目かで自転車置き場から歩いて校門に向かうことができた。
しかし、校門には先生が毎日立っている。
先生の姿が見えた瞬間走って家に帰った。
帰ってきた私を母は車で学校に連れ行った。
正面玄関の上は職員室。
職員室から覗いている複数人の先生。
玄関に入るまで帰らない母。
仕方なく学校に入る。
そして別室ではなく教室へ…
話が違う!と思ってもどうにもならない。
体育の時間。クラスに誰もいなくなり
帰る準備をし玄関に向かっている途中で担任に見つかる
『帰る』と主張するも、職員室に連れて行かれる。
そして自宅に電話。すると帰宅を許された。
多分、話したのは父だろう。
家に帰ると『無理して行かんでいい』と言ってくれた。
学校に行かないまま2年生になり、担任も変わった。
新学期の数日学校に行き、また行けなくなった。
先生の目も友達の目も怖いのだ。
すると学年主任から連絡がきたという。
学年主任は理科担当で空き時間が比較的多いという。
その時間だけ学校に来ないか?と言うのだ。
前回の事もあり慎重になっていた私だったが
兄①②が『あの先生はいい人だよ』というので
父が再度学校に確認したうえで学校に行くことになった。
学校に行く日に父から
『これで無理なら転校しよう』そう伝えられた。
学校に着くと、理科準備室に連れて行かれた。
これからはここに来ればいいと。
それから先生と一緒に中庭の手入れや
学校周辺の木の観察をした。
先生が授業の間は準備室でワークをしていた。
そうして、少しずつ学校にいる時間が長くなっていった。
2月頃になると1日学校で過ごすことができた。
理科準備室は、クラスがある場所から離れているため他の生徒と会うこともない。
職員室も離れているので先生と会うこともない。
学年主任のおかげで学校に行けるようになった。
そして3年生になり、担任は転任してきた母より年上の女性の先生。
先生は授業終了後は『英語準備室』に来るように言った。
担任は英語担当だった。
私の学力は中の上。でも、英語は小学生以下。
4教科は教科書と参考書を読めば学力を保てた。
だが、英語は中学からの教科。単語は覚えられても文法がわからない。
なので、英語はいつも赤点状態。特別に時間のある時に教えてくれることになった。
3年生になり理解ある先生のお陰で学校に行けた。
修学旅行も学校行事も初めて参加することができた。
一緒に草花・木の手入れをし、ワークを教えてくれた先生
ゆっくり見守ってくれた3年の時の先生
2人の先生に心から感謝し、卒業式後にその意を伝えた。
補足談・・・・・・
世の中は自分の想い通りにならない事の方が多い。
理不尽に思うことも多々ある。
ただ隠れるのではなく、自ら声を上げないと誰からも気付いてもらえない!
私は、家では父が理解してくれた。
中学校でも理解してくれる先生がいた。
いま心を痛めている人は伝える勇気を出して欲しい。
その場所は、親でも行政の電話でもいい。
私に伝えてくれると、きっと力になれる‼
『誰にも理解されない』ではなく、理解してくれる人に出会っていないだけだと知ってほしいです。
次回…高校校時代~就職(1カ月で退職)
お楽しみに~👋